著名人が語る体験談を音声で聞くことができます。
一部に、ナレーターの朗読によるものがあります。
・銃弾をくぐり抜けて | 水木しげる(漫画家) |
・不要になった遺言 | 西村晃(俳優・声優) |
・描ききれない思いをこめて | 斎藤邦雄(漫画家・作家) |
・私の戦争体験 | 𠮷田正(作曲家) |
・私の戦争体験 | 小林千登勢(女優) |
・ぼくの満州放浪記 | ちばてつや(漫画家) |
銃弾をくぐり抜けて 水木しげる(漫画家)
昭和18(1943)年5月、郷里の鳥取連隊に入営、ラッパ卒(兵)となる。ラッパ兵は戦死する確率が高いといわれ、申し出て南方派遣の岐阜連隊に転属。ニューブリテン島のラバウルに向かい、入港直前、敵潜水艦の攻撃を受けた。島の南部が連合軍の勢力下で、原住民の第5列(スパイ)活動が盛んであったため、最前線のバイエン分哨所(ぶんしょうじょ)で監視にあたる10人に選ばれる。夜間の歩哨時(ほしょうじ)、突然後方から自動小銃のすさまじい攻撃を受け、分隊はほぼ全滅。水木氏はジャングルの中を5日間さ迷った。
不要になった遺言 西村晃(俳優・声優)
昭和18(1943)年12月8日、学徒出陣により日本大学を繰り上げ卒業し、舞鶴海兵団に入団。海軍14期飛行専修予備学生となり、土浦、徳島での訓練終了後、白菊特別攻撃隊に配属。昭和20(1945)年5月26日、鹿屋基地(かのやきち)から出撃直前に待機命令が出て、そのまま終戦となる。この証言は、出撃の4時間前に両親に宛てて記した西村氏の遺言状(海軍飛行予備学生第14期会『続 ああ同期の桜』光人社 所収)を、西村氏の大学の後輩である声楽家の宮本喜十郎氏が朗読したもの。両親への感謝と、妻子への愛情が綴られている。
描ききれない思いをこめて 斎藤邦雄(漫画家・作家)
昭和16(1941)年3月、群馬県の高崎東部38部隊に入営し、中国河北省に出征。昭和20(1945)年6月、満州(現・中国東北部)への移動となり関東軍の指揮下に入り、そこで終戦を迎えた。昭和20年10月、シベリアのイルクーツク地区に連行され、昭和23(1948)年帰国するまでの3冬を過ごした。食料不足や寒さ、ソ連兵の対応など環境は厳しかったが、イルクーツクの塩工場で共に働いた人々との温かい交流が斎藤氏の心の支えとなった。
私の戦争体験 𠮷田正(作曲家)
昭和17(1942)年1月、水戸歩兵第2連隊に現役召集され、満州(現・中国東北部)に配属される。演習中に急性盲腸炎を患い緊急入院。病院での療養中に作った「昨日も今日も」という曲が「異国の丘」の原曲となった。昭和20(1945)年8月、満州の東部国境でソ連軍と戦い負傷、生死の境をさまよったのち、シベリアへ抑留される。約3年におよぶ抑留生活の中で、生きる支えとして曲を作り続けた。
TALK TALK誌36号 平成7(1995)年所収の記事から編集 (朗読ボランティア 中島裕江氏)。
私の戦争体験 小林千登勢(女優)
平壌(ぴょんやん)で終戦を迎えた後、家財を没収され、過酷な生活を送ることになった小林家は日本への帰国を決意する。集団で貨物列車に乗り、38度線へ向かうが、途中ソ連軍に見つかって貨物列車から降ろされてしまったため、夜中に道なき道を歩いて国境を目指した。小林氏は当時9歳、生後10ヶ月の弟を背負っての脱出行であった。
平成15(2003)年8月17日、東京都松坂屋銀座店で開催した平和祈念展トークショーから収録・編集。
ぼくの満州放浪記 ちばてつや(漫画家)
生後間もなく両親とともに朝鮮に渡り、弟が生まれた1年後に、満州(現・中国東北部)奉天(ほうてん)に移った。父親は終戦直前に召集され、ソ連との国境付近の部隊に入り、終戦後、やつれ果てて帰ってきた。終戦後は治安が悪化したため社宅を出て、引揚げまでの1年間、住まいを転々と変えた。その間、帰ってきた父親が貸本屋を始めたが、全く商売にならなかった。葫廬(コロ)島まで覆いのない貨物列車で移動し、商船学校の練習船で家族揃って博多に帰ることができた。