戦争での苦しくつらい出来事を体験者が語ります。
元兵士、戦後強制抑留者、海外からの引揚者の労苦を聞くお話し会です。(約60分)

丸澤一也(まるさわいちや)さん  引揚体験者


「満州のちびっ子開拓義勇隊」

   ●7月16日(土)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和5(1930)年2月、東京都生まれ。
昭和19(1944)年3月、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所(茨城県)に入る。
昭和20(1945)年3月、内原訓練所を出発し、満州(現・中国東北部)の勃利訓練所に入る。
5月、遼陽に移る。383部隊の後方要員として農作業や警備などを行う。
8月中旬、大人から終戦を知らされる。9月中旬、義勇隊としての団体生活が危険になり、分散して日本人家庭に同居させてもらう。遼陽の義勇隊は
自然解散となる。食料を確保するため、満州人農家の手伝いや、闇市での商売をしながら、避難生活を続ける。
昭和21(1946)年7月、葫蘆島から福岡県の博多港に引揚げ。

成田富男(なりたとみお)さん  抑留体験者


「14歳の満蒙開拓青少年義勇軍」

   7月17日(日)  14:00~
   ※自作の紙芝居を使って語ります。

■■プロフィール■■
昭和4(1929)年12月、兵庫県生まれ。
昭和20(1945)年5月、満州開拓青年義勇隊の隊員として満州(現・中国東北部)の孫呉訓練所に入る。
終戦後、シベリアのセレトカンで8ヶ月の抑留生活を送る。
抑留中、森林伐採作業に従事。
昭和21(1946)年4月、オルレンブルグの収容所に移され、建築作業等に従事。
昭和23(1948)年11月、ナホトカから京都府の舞鶴港に帰国。

土屋洸子(つちやひろこ)さん  引揚体験者


「満州公主嶺~私の故郷」

   ●7月22日(金)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和8 (1933)年1月、鳥取県生まれ。
昭和11(1936)年、父が満州(現・中国東北部)・公主嶺の農事試験場に赴任のため、家族で公主嶺に移住。
昭和20(1945)年4月、新京(現・長春)の敷島高等女学校へ進学し、
寄宿舎に入る。
8月、ソ連軍の爆撃を受け、寄宿舎から公主嶺の両親の元に戻り、公主嶺で
集団避難生活を送る。
昭和21(1946)年7月、父が技術留用者となったため、両親の引揚げが許可
されず、妹と2人で日本人引揚団に加わる。
7月末、葫蘆島から福岡県の博多港に引揚げ。

田中信子(たなかのぶこ)さん  引揚体験者


「7歳の少女が見た満州からの引揚げ」

   ●7月24日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和14(1939)年3月、満州(現・中国東北部)・黒龍江省生まれ。
新潟県から満州に渡った開拓団で最初の子どもとして生まれる。
昭和20(1945)年8月、開拓村で終戦を知る。
10月、匪賊に襲われ母を失い、自身も肩を負傷する。
その後、祖父ら家族5人でハルビンまで徒歩で逃避行。
ハルビンから列車で満州を南下。
昭和21(1946)年、葫蘆島から京都府の舞鶴港に引揚げ。

西崎信夫(にしざきのぶお)さん  元兵士


「駆逐艦雪風とともに見たもの」

   ●7月29日(金)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和2(1927)年1月、三重県生まれ。
昭和17(1942)年9月、海軍特別年少兵の第1期生として広島県の大竹海兵団に入団。
昭和18(1943)年9月、横須賀の海軍水雷学校に入校し、繰上げ卒業。
11月、呉軍港にいた駆逐艦雪風の魚雷発射管射手として配属される。
昭和19(1944)年、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦に参加。
昭和20(1945)年、沖縄水上特攻では、戦艦大和の護衛として従う。
大和が沈没する中、生存者らを救助する。
終戦後、引揚船として使われた雪風に再び乗務し、海外引揚業務に従事する。
昭和22(1947)年10月、復員。

鈴木忠典(すずきただのり)さん  元兵士


「志願して海軍へ、魚雷艇で戦って」

   ●7月31日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和3(1928)年11月、秋田県生まれ。
昭和18(1943)年、志願し、14歳で海軍横須賀海兵団に入団。
水雷学校の訓練科、更に特別訓練科で魚雷艇の操作を学ぶ。
昭和19(1944)年2月、インドネシア中部のセレベス(セラウェシ)島、メナド海軍基地に配属される。
ソロモン諸島などに来襲するアメリカ艦隊に対し、魚雷艇で出撃を繰り返す。その後、潜水艦乗務員として、硫黄島への物資輸送を行い、ついで台湾から沖縄への物資輸送の任に就く。
昭和20(1945)年9月、台湾沖洋上で米軍艦により武装解除され、沖縄の収容所へ。
昭和21(1946)年3月、沖縄から長崎県の佐世保港に復員。

手塚元彦(てづかもとひこ)さん  引揚体験者


「奉天から幼い妹2人と引揚げ」

   ●8月12日(金)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和8(1933)年9月、 満州(現・中国東北部)・奉天(現・瀋陽)生まれ。
昭和20(1945)年8月15日、奉天で終戦を知る。
9月、父親はソ連軍によりシベリアに抑留され、翌年栄養失調で亡くなる。
昭和21(1946)年6月、母親が奉天で病死する。その後、兄妹で孤児院に入る。
年長者だったため、孤児院で亡くなった子どもたちの遺体運びなどをする。
9月、妹2人を連れて、葫蘆島から長崎県の佐世保港に引揚げ。

猪熊得郎(いのくまとくろう)さん  抑留体験者


「戦争に奪われた青春」

  ●8月14日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和3(1928)年9月、東京都生まれ。
昭和19(1944)年4月、 水戸の陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊。
昭和20(1945)年4月、基地通信隊員として関東軍の第2航空軍に配属、満州(現・中国東北部)に渡る。
終戦後、ソ連軍により武装解除され、シベリアのシワキで抑留生活を送る。
抑留中、森林伐採作業、道路工事作業等に従事。
昭和22(1947)年12月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。

吉田勇(よしだいさむ)さん  引揚体験者


「ソ連の潜水艦に襲われて~三船殉難事件で見たもの」

   ●8月19日(金)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和10(1935)年9月、樺太・敷香生まれ。
終戦間際になって、樺太防衛のため父が義勇軍に、兄が鉄道輸送隊に動員
される。
昭和20(1945)年8月17日、母と6人の子どもたちで、敷香から大泊に列車で
移動。
8月21日、第二新興丸に乗船。22日、ソ連軍の潜水艦の攻撃を受けて破損するが、北海道留萌港にたどり着く。
家族で甲板にいたため運よく助かったが、他の乗客の悲惨な光景を目の当たりにした。
同様に攻撃を受けた小笠原丸、泰東丸は沈没し、多くの民間人が犠牲と
なった。(三船殉難事件)

牛窪剛(うしくぼつよし)さん  抑留体験者


「歌で励ましあった収容所生活」

  ●8月21日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
大正14(1925)年8月、神奈川県生まれ。
昭和20(1945)年1月、新発田連隊に入隊後、朝鮮・会寧の第75連隊に配属。
終戦後、ソ連軍により武装解除され、シベリアのホルモリンで抑留生活を
送る。
抑留中、森林伐採作業のほか、鉄道敷設作業に従事。
政治経済講習所で4ヶ月間教育される。
昭和23(1948)年6月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。

加藤正喜(かとうまさき)さん  引揚体験者


「平壌での集団避難生活」

  ●8月26日(金)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和6(1931)年2月、石川県生まれ。
昭和18(1943)年、父が関東軍に配属となり、満州(現・中国東北部)の公主嶺、新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)へと移り住む。
昭和20(1945)年8月8日、平壌(現・ピョンヤン)に移動。15日、平壌高等女学校で終戦を知り、その後、集団避難生活を続ける。その間、石炭運び、遺体運び、傷病者の看護などをする。
昭和21(1946)年7月、家族6人で平壌から京城(現・ソウル)へ1週間徒歩移動。
京城から列車で仁川へ。8月、仁川から福岡県の博多港に引揚げ。

平和祈念展示資料館 (総務省委託)