認識票には、個人を識別するために、部隊番号や氏名が刻まれています。
これは、満州(現・中国東北部)牡丹江[ぼたんこう]省(現・中国黒竜江[こくりゅうこう]省)にいた部隊に配属された兵士に支給されたものです。
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このチョッキは綿でできており、水で濡らすと切れにくくなるという昔の知恵から作られました。
武運が久しく続くことを願って、千人針が縫いこまれています。
慰問袋とは、戦地の兵士を励ますために、日本から送った袋です。
中には、日用品や娯楽用品、雑誌、お守り、手紙、菓子などを詰めて送りました。
飯ごうとは、合金製で底を深く作った炊飯兼用の弁当箱のことです。
外ごうの中に内ごうが収納されており、飯と汁を同時に作ることができました。
シベリアの冬は零下[れいか]30~40度になります。
この外套は、持ち主が飢えに耐えかね、現地の労働者が持っていたパンと袖を交換したために、袖がありません。
抑留者は、このような斧[おの]やのこぎりなどを使って伐採作業に従事しました。
伐採は、ソ連(現・ロシア)によるシベリア抑留者に課せられた強制労働のひとつです。
多くの帰還者が特につらかった作業として挙げるのが伐採でした。
この靴下は、抑留者がソ連(現・ロシア)支給の布を使って作りました。
糸は布をほぐしたもので、自作の針を使っています。
周りの目を盗んで手に入れた物資などを使って、多くの抑留者が生きていくための道具を作りました。
昭和21(1946)年の春頃までは、多くの収容所の抑留者たちには、1日に約350gの黒パンが支給されました。
そのほかには、雑穀を材料とした粥[かゆ]、ごく少量の野菜などが入ったスープしか支給されず、
多くの抑留者が栄養失調になり、最初の冬に多数の犠牲者を出すこととなりました。
このワンピースは、母親が満州(現・中国東北部)で生まれた娘に、
初めて日本についたときに着せるために、亡くなった赤ん坊のおむつを使って作りました。
リュックサックには、乾燥米などの食料や衣服をできる限り詰めました。
多くの母親が、大きなリュックサックを背負い、大きな荷物を持ちながら、子どもを連れて祖国日本を目指しました。
引揚げ時に少年の胸に付いていた名札で、氏名や行き先などが書かれています。
引揚げの際は、このような札を胸などに付けました。
興安丸は、戦後海外各地から引揚者を乗せた代表的な引揚船です。
全長は約126メートルあり、約2,000人を乗せることができました。