ゴールデンウィーク期間にあわせて、特別企画を開催します。
このイベントは、企画展示コーナーにて4月16日(火)から開催中の企画展「遠き大陸への想い 『満蒙印画輯』に見る風景」の関連企画となります。
期 間 | 2024年5月3日(金・祝)~5月6日(月・休) |
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場 所 | 平和祈念展示資料館 ビデオシアター |
料 金 | 無料 |
イベントスケジュール
5月3日(金・祝)
■映画上映■
「葫蘆島大遣返 日本人難民105万人引揚げの記録」11:00~(上映時間102分)
当時の数少ない記録写真や中国の協力による現地調査や関係者の証言をもとに、満州(現・中国東北部)に居留していた在留邦人105万人の引揚港となった葫蘆島を描いた作品。
製作・脚本・演出:国弘威雄 演出・編集:松井稔
写真:飯山達雄 監修:新藤兼人 ナレーター:久野綾希子
1997(平成9)年度作品 ©葫蘆島を記録する会
■語り部お話し会■
14:00~ (約60分)
出演:福田浩人(ふくだ ひろと)さん
1936(昭和11)年12月、宮崎県生まれ。
1941(昭和16)年4月29日に家族とともに満州へ渡る。2年後に満蒙開拓義勇軍の銃剣術の教師であった父の転勤で黒河省孫呉へ移る。
1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍の襲撃を受けて逃げ、北安で敗戦を知る。
1946(昭和21)年1月1日、新京の収容所で母親が発疹チフスのため死亡する。
4月、同郷の知人に引き取られる。
9月、引き取ってくれた知り合いが留用されたため、知人の弟家族に連れられて、福岡県の博多港に引き揚げる。
5月4日(土・祝)
■映画上映■
「嗚呼 満蒙開拓団」11:00~(上映時間120分)
約27万人のうち約8万人が帰国できないまま命を落とし、多くの残留孤児や残留婦人を生みだした満蒙開拓団。日本人公墓の墓参ツアーの同行取材で得た、貴重な証言によるドキュメンタリー。
製作:工藤充 演出:羽田澄子 2008(平成20)年製作。©自由工房作品
■語り部お話し会■
14:00~ (約60分)
出演:天野譯溥(あまの つぐひろ)さん
1937 (昭和12)年1月、東京生まれ。
1941(昭和16)年夏、電機メーカー勤務の父の転勤に伴って中国・大連へ渡る。以後、引揚げまで在住。
1943(昭和18)年4月、向陽国民学校に入校。
1945(昭和20)年8月終戦。父は1944(昭和19)年に内地出張のまま帰れなくなり、また父の祖母と妹、甥が大連に来たまま帰国できずにいた。
まもなくソ連軍が進駐し、家を立ち退かされる。一家で近くの日本人住宅だったビルに引っ越し、以降引揚げまでの1年半を過ごす。生活のための切り売りはすぐに尽き、日本人相手に牛乳の瓶詰めと配達、路上で饅頭の立ち売りなどしてしのいだ。
1947(昭和22)年2月、佐世保港に引き揚げる。
5月5日(日・祝)
■映画上映■
「樺太1945年夏 氷雪の門」11:00~(上映時間119分)
敗戦間際の樺太にソ連軍が侵攻を開始し、8月20日真岡の町に上陸。緊急の電話連絡を受信するため、職場にとどまった9人の女性電話交換手の悲劇を描いた作品。
原作:金子俊夫「北海タイムス連載 樺太1945年夏 樺太終戦記録」
1974(昭和49)年公開
監督:村山三男 出演:二木てるみ・岡田可愛・藤田弓子ほか
🄫「氷雪の門」上映委員会
■語り部お話し会■
14:00~ (約60分)
出演:中島千代吉(なかじま ちよきち)さん
1929(昭和4)年1月、山形県生まれ。
8人兄弟で家は自作農家。学校の先生の勧めもあり、満州行きを決めた。
1943(昭和18)年3月満蒙開拓義勇軍内原訓練所入所。1年の訓練後、勃利訓練所へ。
1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍の侵攻後勃利街防衛を命じられ、その後約1か月山中をさまよい投降。
花園収容所は不衛生で食糧事情も悪く病弱者が多く死者も出た。使役に駆り出されて戻ると仲間が誰もいなくなっていた。理髪業を営む中国人宅に誘われて寄留。手伝いをしながら約半年を過ごした。
1946(昭和21)年10月、博多港に引き揚げる。
5月6日(月・休)
■映画上映■
「葛根廟事件の証言」11:00~(上映時間74分)
終戦の前日、満州の葛根廟でソ連軍の攻撃を受け、1,000 名以上の民間の日本人が虐殺された事件について、生存者や遺族、関係者の証言からその全容を辿るドキュメンタリー作品。
監督・製作:田上龍一
2017(平成29)年製作 ©2019 田上龍一
■語り部お話し会■
14:00~ (約60分)
出演:大島 満吉(おおしま まんきち)さん
1935(昭和10)年12月2日、群馬県生まれ。
1938(昭和13)年10月、満州で建設業を始めた父に呼ばれ、母と兄とともに満州へ渡る。
白城子、通遼で短期間暮らし、王爺廟(1943(昭和18)年に興安と改称、現・ウランホト市)に居を定める。
1941(昭和16)年4月、王爺廟(興安)在満国民学校に入学。
1945(昭和20)年8月11日、ソ連軍による空襲で、約1300人が避難を始める。
8月14日、葛根廟に近い山中でソ連軍戦車隊の襲撃を受け、約700人が犠牲になる。
さらに、集団自決で400人以上が死亡し、それに巻き込まれた2歳の妹を失う。
家族4人で逃避行を続け、9月末に新京へ到着。
物乞いをしながら、約1年間の避難生活を送る。
1946(昭和21)年9月8日、新京を出発し、葫蘆島からリバティ船に乗る。
10月3日、博多港に引き揚げる。