語り部の方の戦争体験について、学芸員が進行役となってわかりやすく伝えます。
上野辰熊(うえのたつくま)さん
「特攻寸前で終戦となった少年飛行兵」
- 4月28日(日) 14:00~(約60分)
16歳で少年飛行兵として訓練を受け、鹿児島の万世飛行場で
沖縄航空作戦に加わります。
出撃を待つ間に沖縄戦が終結、出撃せずに終戦を迎えた
元少年飛行兵の体験談です。
■■プロフィール■■
昭和3(1928)年3月、山口県生まれ。
昭和18(1943)年10月、陸軍少年飛行兵として大刀洗陸軍飛行学校に入校、基礎訓練を受ける。
昭和19(1944)年4月、正式に任官し、京城教育隊へ配属。
赤トンボ(九五式中練)による飛行訓練を受ける。
昭和19(1944)年8月、九九式襲撃機の搭乗員となり、訓練や特攻機輸送などに従事する。
昭和20(1945)年5月、鹿児島県の万世飛行場で沖縄航空作戦中の飛行第66戦隊に転属となる。
沖縄戦が終結したため、7月に大刀洗北飛行場へ転属。
8月、終戦を迎える。
加藤 正喜(かとうまさき)さん
「平壌から徒歩で38度線を越えて」
- 4月29日(月・祝) 14:00~(約60分)
ソ連の管轄下にあった平壌から、京城(現・ソウル)を目指し家族とともに一週間の道のりを徒歩で歩いた当時15歳の少年の体験談です。
■■プロフィール■■
昭和6(1931)年2月、石川県生まれ。
昭和18(1943)年、父が関東軍に配属となり、満州(現・中国東北部)の公主嶺、新京(現・長春)、
奉天(現・瀋陽)へと移り住む。
昭和20(1945)年8月8日、平壌(現・ピョンヤン)に移動。15日、平壌高等女学校で終戦を知り、その後、
集団避難生活を続ける。その間、石炭運び、遺体運び、傷病者の看護などをする。
昭和21(1946)年7月、家族6人で平壌から京城(現・ソウル)へ1週間徒歩移動。京城から列車で仁川へ。
8月、仁川から福岡県の博多港に引揚げ。
西倉勝(にしくらまさる) さん
「酷寒のコムソモリスクでの抑留生活」
- 5月2日(木) 14:00~(約60分)
昭和20(1945)年に19歳で召集され、朝鮮北部とソ連との
国境付近に配属された兵士。
終戦後に抑留されたシベリアで待っていたのは、ノルマに追われる労働の日々でした。
■■プロフィール■■
大正14(1925)年5月、新潟県生まれ。 昭和20(1945)年1月に現役兵として出征、
朝鮮北部とソ連との国境付近に配属される。
終戦後、ソ連軍により武装解除され、コムソモリスクで抑留生活を送る。
抑留中、土木工事、製材工場、伐採作業、住宅建設、農作業等、様々な労働に従事。
昭和23(1948)年7月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。
土屋洸子(つちやひろこ) さん
「満州公主嶺-私の故郷-」
- 5月3日(金・祝) 14:00~(約60分)
家族で満州(現・中国東北部)・公主嶺に移住した少女が、
高等女学校へ進学した年の夏にソ連軍の侵攻を受け、
避難生活の後、両親と別れて妹と二人で引揚げの途につく体験談です。
■■プロフィール■■
昭和8(1933)年1月、鳥取県生まれ。
昭和11(1936)年、父が満州・公主嶺の農事試験場に赴任のため、家族で公主嶺に移住。
昭和20(1945)年4月、新京(現・長春)の敷島高等女学校へ進学し、寄宿舎に入る。
8月、ソ連軍の爆撃を受け、寄宿舎から公主嶺の両親の元に戻り、公主嶺で集団避難生活を送る。
昭和21(1946)年7月、父が技術留用者となったため、両親の引揚げが許可されず、
妹と2人で日本人引揚団に加わる。
7月末、葫蘆島から福岡県の博多港に引揚げ。
鈴木忠典(すずきただのり) さん
「志願して海軍へ-魚雷艇での戦い-」
- 5月4日(土・祝) 14:00~(約60分)
14歳で海軍に志願した少年は、魚雷艇での出撃、潜水艦で硫黄島や
沖縄への物資輸送などの任務に携わりました。
■■プロフィール■■
昭和3(1928)年11月、秋田県生まれ。
昭和18(1943)年、14歳で志願し、海軍横須賀海兵団に入団。
水雷学校の訓練科、更に特別訓練科で魚雷艇の操作を学ぶ。
昭和19(1944)年2月、インドネシア中部のセレベス(セラウェシ)島、メナド海軍基地に配属される。
ソロモン諸島などに来襲するアメリカ艦隊に対し、魚雷艇で出撃を繰り返す。
その後、潜水艦乗務員として、硫黄島への物資輸送を行い、ついで、台湾から沖縄への物資輸送の任に就く。
昭和20(1945)年9月、台湾沖洋上で米軍艦により武装解除され、沖縄の収容所へ。
昭和21(1946)年3月、沖縄から長崎県の佐世保港に復員。
遠藤尚次(えんどうしょうじ) さん
「シベリアで亡くなった戦友への想い」
- 5月5日(日・祝) 14:00~(約60分)
18歳で兵士となり、中国へ渡ったのち、朝鮮で終戦を迎えました。
しかし、待ち受けていたのは約2年にわたる過酷な抑留生活でした。
■■プロフィール■■
大正15(1926)年2月、神奈川県生まれ。
昭和19(1944)年1月、東部第62部隊に入隊後、中国・済南の独立歩兵第111大隊に配属。
昭和20(1945)年7月、朝鮮・咸興に移動。
終戦後、ソ連軍による武装解除の後、船でウラジオストックに運ばれ、
極東地方のイマン(現・ダリネレチェンスク)で抑留生活を送る。
抑留中、森林伐採作業、農作業等に従事。
昭和23(1948)年5月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。
福岡澄子(ふくおかすみこ) さん
「フランス、ドイツ、満州での避難生活」
- 5月6日(月・振休) 14:00~(約60分)
貿易商に勤める父の転勤で、パリへ渡った4歳の少女。
第二次世界大戦の中、一家はパリからベルリンへ逃避、その後モスクワを経由してシベリア鉄道で満州へ向かいます。
■■プロフィール■■
昭和11(1936)年4月、満州(現・中国東北部)・大連生まれ。
昭和14(1939)年5月、貿易商社に勤める父の転勤先パリに移る。
昭和19(1944)年8月、連合国軍の攻勢に伴い、パリからベルリンへと逃避。
昭和20(1945)年5月、ソ連軍の護衛により、ベルリンからモスクワへ。
さらに、シベリア鉄道で満州へ向かう。
奉天(現・瀋陽)で避難生活を送り、そこで終戦を知る。
昭和21(1946)年7月、葫蘆島から山口県の仙崎港に引揚げ。