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あ | か | さ | た | な | は | ま | や | ら | わ
あ
用語 | ふりがな | 内容 |
赤紙 | あかがみ | 予備役、後備役[こうびえき]の下士官、兵を召集するための召集令状や臨時召集令状。使用された用紙が赤色であったため赤紙と呼ばれた。市町村の兵事係によって届けられ、兵営に出頭した際、回収された。 |
鞍工 | あんこう | 鞍[くら]や鐙[あぶみ]など馬具を修繕する技術兵のことで騎兵や砲兵部隊に配属された。戦争は銃を手に前線で戦闘を行う人たちだけではなく、さまざまな職能をもった兵によって支えられることで可能となった。鞍工もそのひとつであり、その名の通り騎兵部隊には欠かせないものであった。ただし、兵器の機械化にともない乗馬部隊は減少し、観測器具の修繕のほうが本職となっていった。 |
慰問隊 | いもんたい | 戦地の兵士を慰問した芸能人の使節団のこと。兵士への慰問はさまざまなかたちで行われたが、戦地は緊張の連続であったとともに、娯楽が少なかった。そのなかにおいて、吉本興業の「わらわし隊」、宝塚や松竹などの芸能人が披露する芸や唱歌は非常によろこばれた。 |
慰問袋 | いもんぶくろ | 戦地の兵士を慰問するため日用品や娯楽用品、雑誌、御守り、手紙などを入れて送る袋。満州事変勃発の際、新聞社の提唱で慰問袋を送る運動が大々的に展開され、日中戦争ではさらに大量の慰問袋が送られ、銃後と前線を結んだ。一時は商品化もされたが、戦局悪化によって物資欠乏、輸送困難となるにつれ、慰問袋も先細りとなっていった。 |
厩 | うまや | 軍用の目的で馬を飼育した小屋、馬小屋。馬は重要な移動手段であり、重量の荷物や機材を運ぶ労働力だった。その馬を飼育する厩の運営も、軍隊での大切な仕事であった。 |
衛生兵 | えいせいへい | 医療に関する業務を担当した兵士のこと。その任務範囲は広く、前線における負傷兵への応急医療だけでなく、後方においては傷病兵の治療・看護や部隊の衛生の維持・管理も行った。基本的に非戦闘員であり、任務の特殊性から攻撃対象としてはならないとされ、赤十字の入った腕章をつけた。 |
営庭 | えいてい | 兵営内の広場。ここで訓練などを行った。 |
営内 | えいない | 陣営、兵営の内部。最前線から離れた場所や大隊区に置かれた兵営は、兵士の休養などを施すための施設であった。 |
援護物資受配票 | えんごぶっしじゅはいひょう | 地方自治体が、引揚者に対し、日用品などを提供するために配布したもの。この票を使うことで家族構成や年齢に応じた援助物資を受けられた。しかし、ほとんどは援助を受けられなかったといわれている。 |
演習 | えんしゅう | 演習一般の目的は、平時においてなるべく実戦に近い状態で軍隊を訓練し、あるいは幹部を集めて実地に教育することにあった。実兵を用いて実施する演習には、諸兵種を連合して演習する諸兵連合演習、毎教育年度の末期(秋季)に6日間行われる師団秋季演習、毎年1回2個師団が集まり行われる師団対抗演習、天皇が統監する特別大演習などがあった。 |
燕麦 | えんばく | 中央アジアおよびヨーロッパ原産のイネ科の作物。麦の一種で、畑の雑草から作物になったといわれている。種子は飼料として、また、食用としてオートミールやウィスキーの原料となる。日本では北海道や東北地方で栽培されるなど、寒い地域でも育つため、作物の育ちにくい満州の地においては、高梁[こうりゃん]と並び重宝された。 |
應召袋 | おうしょうぶくろ | 履歴表や召集令状、点呼令状、勲章、記章、印判など、軍隊生活に必要なものを収納しておくための袋で、召集の際に持参した。應召袋は海軍の呼び方で、陸軍では奉公袋と呼ばれた。口が紐で閉じられるようになっている袋に「應召袋」と墨で大きく書かれている。 |
王道楽土 | おうどうらくど | 「五族協和」と並ぶ満州国の理念の一つ。アジアにおける平和で理想的な国家を、東洋の徳による政治で造るという意味が込められている。その理念の普及のため、当時、映画や歌が作られるなど大々的に宣伝が行われた。また、国内不況もあり、零細農民や土地を持たない小作人などが満州国を希望の楽園として憧れる風潮も生まれた。 |
か
用語 | ふりがな | 内容 |
海軍のマーク | かいぐんのまーく | 錨[いかり]をもとにして作られた錨章[びょうしょう]は軍帽などにつけられた。桜に錨をつけたものは、ボタンにつけられた。 |
華北交通 | かほくこうつう | 日中戦争中、華北など日本軍が占領した地域の交通事業を一元的に統制、運営した会社。もともと中国大陸における鉄道事業は南満州鉄道株式会社が担っていたが、占領地域の拡大にともない、華北地域の鉄道や自動車、運河などの交通事業を担う会社として昭和14(1939)年4月に設立された。日華合弁会社ではあったが、要職にはほとんど日本人が就き、本社は北京に置かれた。会社の路線は日本軍占領地域の基幹をなした一方、大陸から日本への重要資源の輸送路として大きな意味を持ったが、中国軍の攻撃により運行はしばしば途絶えた。戦後は、中国側に接収された。 |
叺 | かます | 主にたばこ入として使われた小袋。油紙や皮で作られており、密封性に優れている。そのため、刻みたばこの他にも穀物、塩、石炭などの湿気を嫌うものを入れて持ち運ぶのに用いられた。 |
簡閲点呼 | かんえつてんこ | 陸海軍の予備役、後備役[こうびえき]、補充兵役、国民兵役の尉官、下士官、兵を2年に1回程度召集して、点検、査閲[さえつ]、教導すること。有事の際における在郷軍人の応召準備状況を点検するのを主眼とした。本籍地所在地の師管区、鎮守府管区ごとに実施された。 |
艦砲射撃 | かんぽうしゃげき | 軍艦から地上目標に対して砲撃すること。日本軍はガダルカナル島の攻撃しか行わなかった。連合国軍は、太平洋戦争中盤以降、上陸を行う前に地上の軍事目標などに対して軍艦から砲撃し、その後、上陸作戦を行った。 |
凱旋記念品 | がいせんきねんひん | 除隊を記念して部隊等から贈られた品。従軍に対する功労を称える意味合いがあったと思われる。贈られた品には盃[さかずき]などがある。 |
学徒出陣 | がくとしゅつじん | 第二次世界大戦の末期、戦局の悪化にともない兵力不足を補うため、大学生、高等学校、専門学校などの学生が在学途中で徴兵を受け、出征をしたこと。昭和18(1943)年12月一部の免除者を除き、徴兵検査に合格した満20歳以上の大学や高専の学生は陸海軍にそれぞれ入隊した。これに先だち、同年10月明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開催された。そこで読まれた「生等[せいら]もとより生還を期せず」の答辞どおり、特攻などによる犠牲をはじめとして再び学校に戻る事の出来なかったものも少なくなかった。このように学業なかばで出陣した学生の総数は数万に及ぶとされているが、現在もなお確定されていない。 |
帰還証明書 | きかんしょうめいしょ | 戦後、交付された証明書のひとつで、帰還証明書の場合、氏名、官等、所属した部隊が記され、召集解除を受け、除隊帰還したことを証するものであった。このような日本に帰還したことを証明する書類は復員庁や引揚援護庁、地方自治体などで統一性を欠く中で発行され、引揚げや復員が戦後の混乱のなかで行われた様子を示している。 |
帰還促進運動 | きかんそくしんうんどう | 帰還促進運動とは、太平洋戦争終結後、外国に居る日本人は、日本内地に帰還させられることとなったが、外国で行われているBC級裁判の被告や、服役している元軍人、シベリア抑留などで帰還が許されない人々など、未帰還者と呼ばれる、外国に残ったまま帰国できないでいる人々がおり、彼等の帰還を促進しようという活動のことである。 |
帰郷証明書 | ききょうしょうめいしょ | 戦後、交付された証明書のひとつで、部隊解散に際し、帰郷命令が出たことを証明する書類。引揚げや復員は終戦の混乱のなかで行われた。それゆえ、戦地から故郷に帰郷するまでにだされた証明書の数々は復員庁や引揚援護庁、地方自治体などで統一性を欠く中で発行され、当時の混乱の様子がうかがえる。 |
帰国承認書 | きこくしょうにんしょ | 戦後、日本に帰国するために発行された証明書。しかし、身許不明や一家離散などの要因により、証明書が発行されず日本の土地を踏めなかった者も多数おり、残留孤児、残留婦人などの原因にもなっている。 |
記章 | きしょう | 従軍記章。将兵の区別なく、または軍功の有る無しにかかわらず、戦役・事変に従軍またはこれらに関係する軍務に従事した軍人、軍属、文官、民間人に与えられたしるし、バッジ。資格の有る者が死亡した場合には遺族に交付された。勲章と同様に佩用[はいよう]されることが許されていたが、勲章とは異なり年金等の恩恵は得られなかった。 |
機銃 | きじゅう | 機関銃の略。また、軍用機や軍艦などに搭載された銃器でもある。 |
義務兵役制 | ぎむへいえきせい | 兵役法(昭和2(1927)年)によって、国民に兵役の義務を課して、兵役に適任とされるものを徴集して兵士として入営させる制度。戦前の日本は国民皆兵を基本としており、有事の際には職業軍人の人々だけではなく、一般の国民も兵士として召集された。徴兵制度とも呼ばれる。 |
義勇隊 | ぎゆうたい | 義勇隊とは、一般に戦争や事変の際に、秩序維持や自衛のために人民が自発的に編成する戦闘部隊のことをさす。満蒙開拓青少年義勇軍など太平洋戦争中にもさまざまな義勇隊が組織された。また、戦争末期の昭和20(1945)年3月には本土決戦に向け、防空および空襲被害の復旧などに全国民を動員するために国民義勇隊が地域や職域単位で組織された。 |
玉砕 | ぎょくさい | 太平洋戦争終盤、南方の島嶼[とうしょ]部を中心に日本軍が圧倒的な戦力を持つ連合国軍によって攻撃された際、連合国軍に降伏せず、突撃し全滅したこと。アッツ島ではじめて玉砕が行われた。また、サイパン島でのバンザイ突撃などがある。本土決戦に際しては、軍部は一億総玉砕を主張した。 |
魚雷・機雷 | ぎょらい・きらい | 魚雷とは海戦用の兵器の一つ。自走力を持ち、艦艇や雷撃機などから発射し、水中を航走して艦船の水中部に命中して撃沈させる。機雷とは水雷の一種。海中に漂わせておき、これに接すると自動的に爆発するようにしかけたもの。 |
駆逐艦 | くちくかん | 水雷艇の攻撃を撃退するために建造された艦種。ちなみに、軍艦としての分類ではなく、補助艦艇として独立した艦種である。その後、元来の主目標であった水雷艇に代わり、魚雷による戦艦などへの攻撃、潜水艦の撃退、防空、船団護衛、上陸作戦支援など多用途に使用されることになる。また、平時においては海外警備にも使用された。日本においては、独特の戦術の進化を遂げ駆逐艦による夜襲攻撃に重点が置かれるようになっていく。 |
黒パン | くろぱん | 抑留生活の象徴とされ、全ての抑留者の命を支えた。外見はチョコレート色で中味は褐色、少し酸っぱい味がする。本来はライ麦で作るが、捕虜たちに給されたものは、ライ麦以外に、大麦、小麦、とうもろこし、ジャガイモが混入していた。これらの粉末を水で練ってイースト菌で発酵させて焼く。大きさは各種あるが、型は長方形の角材のようであったといわれる。捕虜たちには、ぎっしり詰まって軟らかい部分より得であったため、外側の皮部分が好まれたという。 |
軍医 | ぐんい | 軍隊において医務に従事した武官。明治時代初期、建軍とともに軍医制度がはじまり、のちに陸・海軍の軍医制度はそれぞれ分離された。そのため、陸・海軍によって制度の違いが多く存在するが、戦争が進むにつれ深刻な軍医不足となり、陸軍では医師をあらかじめ予備役とする軍医予備員制度などをとった。また、人員不足だけではなく、戦局の悪化にともない医療器具や薬の不足、施設が不十分なこともあり、必ずしも満足な治療が出来たわけではなかった。 |
軍営 | ぐんえい | 軍隊の駐屯地、兵営、陣営。軍隊は派遣された先に、休憩所、食堂、宿泊施設、貯蔵庫などを建設して、現地で活動するための根拠基地として使用した。また、敵が攻撃を仕掛けてくる場合に備えて、監視する兵士を駐在させるためにも建設された。 |
軍紀 | ぐんき | 軍隊の統制を保つための風紀や規律、軍律。軍律とは、軍がその安全と秩序維持を図るために設けられた。 |
軍事郵便 | ぐんじゆうびん | 明治37(1904)年勅令を以て定められた制度で、戦時または事変の際に、戦地や戦地に準ずる地域に居る軍隊、軍艦(艇)等の軍荷や、軍人、軍属または、軍の許可を得た者から出される郵便、また、彼等に宛てられた郵便のこと。これらの郵便は無料であり、その他の制限についても命令を以て規定できるとされている。 |
軍人・軍属 | ぐんじん・ぐんぞく | 軍人とはすべて陸海軍の兵籍にある者で、これには武官と兵とに分かれる。武官とは、将校、将校相当官、海軍特務士官、准士官、下士官のことをいい、現役武官は軍人を職業とする者である。将校、将校相当官は終身官であり、退役しても武官だった。兵は国民の義務として兵役にある者だった。軍属は、軍人以外で本人の意志により職業として陸海軍に勤務する者で、文官、雇員[こいん]、傭人[ようにん]に分けられる。 |
軍装 | ぐんそう | 戦闘のための装備や武装、装備をすること。また、軍服を着ることも指す。 |
軍隊教育令 | ぐんたいきょういくれい | 陸軍における兵士の教育は部隊で行うのが基本で、その部隊の教育について定めたのが軍隊教育令である。ここでいう軍隊とは、陸軍全体のことをいうのではなく部隊のことをいう。軍隊教育の目的は、軍人、軍隊を訓練して戦争の任に当たらせるものであり、戦争に欠くことができない要素は、軍人精神と軍紀であり、軍隊教育はこの要素を満たすことを主眼とした。また、軍人教育は国民の精神に大きな影響を及ぼすとして重要な役割があるとされた。 |
軍隊手牒 | ぐんたいてちょう | 軍隊手牒とは、下士官、兵の身分証明書、あるいは経歴書となるポケットサイズの手帳であり、入隊から除隊まで常に携帯する。氏名、生年月日の他、異動や昇進などが書き込まれるため、軍隊手帳を見れば、兵士の経歴が分るようになっていた。 |
軍隊内務書 | ぐんたいないむしょ | 軍隊内務書とは、陸軍の平時における最小単位の組織であった内務班の行動規範について細かく定めたもの。歩兵内務書が明治21(1888)年に改められ、軍隊内務書となった。内容を改定されながら、太平洋戦争中まで使用されていた。内務班は、1年目と2年目の現役兵からなっており、軍隊内務書は、兵士の生活の規範となっていた。 |
軍隊漫画絵ハガキ | ぐんたいまんがえはがき | 軍隊に関係する場面を漫画にした絵ハガキ。入隊、軍隊生活、訓練、戦闘、凱旋の様子などが描かれた。兵士に吹き出しが付けられ、忠実で勇敢な兵士像が描写された。戦前は、絵ハガキがコレクターアイテムとして流行していたので、軍隊でも一般向けに宣伝の意図もあり製作していた。 |
軍馬 | ぐんば | 日本陸軍は太平洋戦争期まで多数の軍馬を使用した。人員と同様軍馬も定数が決められており、訓練が行われた後に部隊に移された。使役期間は8~10年で、戦時には民間馬が徴発された。外地に出征した軍馬のほとんどは帰還できなかった。 |
軍用手票 | ぐんようしゅひょう | 「軍票[ぐんぴょう]」とも呼ばれる。占領地において軍隊が軍需物資調達の目的のため発行する特殊紙幣。日中戦争の初期は、日本の紙幣と同じデザインが用いられていたが、占領が長引くにつれ、中国大陸では竜や鳳凰[ほうおう]、マレー方面ではヤシやバナナの木など、図案もその国に親しまれるものが選ばれるようになった。兌換[だかん]を前提としていたが、現実には殆ど行われず、敗戦と同時に「紙くず」となった。 |
検疫済証明書 | けんえきずみしょうめいしょ | 引揚港に到着した際に行われる検疫を通過したことを証明するもの。この証明書を持ち税関、検疫所、事務所などで手続を行うことで上陸許可が下りる。検疫には、連合国軍や厚生省などが協力して行った。 |
憲兵 | けんぺい | 軍事警察を司る兵。またその兵科。日本では明治14(1881)年に創設され、陸軍大臣の管轄に属した。のち、次第に権限が拡大され、一般民衆の思想取り締まりを主要任務とするようになった。 |
ゲートル | げーとる | フランス語を語源とする足を包む洋風の脚絆[きゃはん]。軍隊では巻脚絆[まききゃはん]と呼び、日露戦争後に正式採用となった。厚い木綿、ラシャ製の細い帯状のものを足に巻きつけて使用し、戦地では、応急処置の包帯代わりとして、また骨折した手足を吊るためにも使われた。初年兵は、演習が終わると古参兵[こさんへい]や班長のもとに駆け寄り、ゲートルをほどき巻き直してやるのが日常だったという。 |
現役兵 | げんえきへい | 昭和2(1927)年兵役法が制定され、満20歳の前年12月1日からその年の11月30日までに徴兵検査を受けた者の中で定められた所要の人員だけ選ばれた。そして、その中で常備兵役とされた者の内、教育のため軍隊に入って軍の骨幹たるべき者が現役兵とされた。陸軍は、満20歳から陸軍は2年、海軍は3年服役した。昭和13(1938)年以降には、在営期間を過ぎた現役者の延長が定められた。 |
現役兵証書 | げんえきへいしょうしょ | 現役兵証書とは、兵役期間で現役に服するものであることを示す証書。現役にある兵隊は通常陸軍は2年、海軍は3年である。徴兵検査後、甲種合格をしたものの中から現役兵に選ばれた者に交付される。兵は、この現役兵証書を携帯し、入営することとなっている。 |
降伏 | こうふく | 昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言受諾により終戦を迎え、9月2日、降伏文書に調印し、降伏した。(しかし、8月8日に侵攻したソ連軍の攻撃は、15日以降も南樺太[みなみからふと]、千島列島[ちしまれっとう]、満州で続いており、9月5日に歯舞諸島[はぼまいしょとう]が占領されるまで続いた。また、ソ連軍は約60万人もの人々をシベリアに強制的に抑留した。) |
高粱 | こうりゃん | 中国東北部から朝鮮北部の乾燥地帯において栽培されている「もろこし」の一種。原産地はアフリカで、紀元前4世紀頃中国へと伝わり、中国北部から満州にかけて広く栽培されるようになった。米などの穀物が育ちにくい環境にあっても成長するため、満州においては、重要な作物として重宝された。 |
国民兵役 | こくみんへいえき | 戦時または事変に際して国民軍を編成する場合に、その要員として召集を受け、または国内の警備と防衛に任ずる役目を担った兵役の種類。第一国民兵役はすでに軍隊教育をうけて予備役や後備役[こうびえき]を終えたもの、第二国民兵役は軍隊教育を受けていないもので、日本国籍を持つ男子は満17歳になると、全員第二国民兵役に編入させられた。 |
孤児収容所 | こじしゅうようしょ | 戦争で親を亡くした孤児を収容した施設。終戦後、国内外を問わず、戦災によって家族を失った子供が多く発生した。ただし、収容されても、収容所の食料事情は厳しく栄養失調によって命を落とす例も少なくなかった。また、中国における孤児の収容所では帰国できずに、いわゆる残留孤児となった子供たちも多くいた。 |
古兵 | こへい | 入営して満1年以上たった兵のこと。古兵が初年兵に対する暴力による私的制裁などを行ったこともあった。 |
さ
用語 | ふりがな | 内容 |
最古参 | さいこさん | 兵の中で1番古い兵のこと。現役兵の最後の年。 |
参謀本部 | さんぼうほんぶ | 日本陸軍の軍令管掌機関[ぐんれいかんしょうきかん]。参謀本部は、陸軍省から独立し、天皇に直隷[ちょくれい]し天皇の統帥権を輔翼[ほよく]する機関。日本陸軍は軍政を掌る陸軍省、軍令を掌る参謀本部の二元組織を採用していた。軍政とは、軍隊の編制、予算案の作成、給与、検閲、規律など行政に関わる部分を指し、軍令とは、国防計画、作戦計画、平戦両時の兵力運用などの作戦用兵を中心とする事項や、それらに関わる事項の命令などを指した。 |
在郷軍人 | ざいごうぐんじん | 在郷軍人とは、陸、海軍人であって、現役兵ではないものの総称。予備役や後備役[こうびえき]、退役将校、帰休兵、補充兵などが、在郷軍人にあたる。国家総動員の場合、国軍編成の大部分、特に下士官以下は殆ど在郷軍人よりなる。 |
塹壕 | ざんごう | 野戦などで歩兵の守備線に沿って作る防御施設。溝を掘り、木材などで補強した。 |
志願兵 | しがんへい | 志願兵とは、徴兵検査における甲種合格者で、現役兵に徴用する選抜くじにはずれた者や、年齢の制限にかかわらず、みずからその徴集を希望した兵。前者は、徴兵検査に合格し、籤[くじ]で選ばれた一般の現役兵と区別され、籤外徴集[せんがいちょうしゅう]と呼ばれる。また後者は、徴兵適齢未満現役と呼ばれる。 |
出征 | しゅっせい | 軍隊に入って、戦争に行くこと。 |
酒保 | しゅほ | 兵営、艦船内に設けられた売店。「軍隊内務令」の物品販売所がこれにあたる。士官、兵に時間を限定して、酒類、甘味品などの飲食物、手拭、歯ブラシ、ちり紙などの日用品を安価で販売していた。酒や汁粉、うどんなどは酒保内でのみ飲食が許可され、新聞・雑誌の閲覧、囲碁・将棋などの娯楽設備もあった。 |
召集令状 | しょうしゅうれいじょう | 在郷軍人を実際の軍務に召集するために発出された命令状。本記と受領証からなる。本記には住所氏名、召集部隊名、出頭場所、出頭日時などが書かれており、応召者が兵営に出頭した際に回収された。受領証は応召者が押印した後にそれぞれの市町村役場に保管された。 |
詔書 | しょうしょ | 天皇が意思表示された公文書。内閣総理大臣以下各国務大臣が副署した。開戦の詔書や終戦の詔書などがある。 |
詔勅 | しょうちょく | 日本国憲法以前において天皇が重要な国事に関して意思を書き記したもの。詔書には天皇の名「御名[ぎょめい]」と印「御璽[ぎょじ]」が記され、帝国議会の召集および解散、宣戦・講和などの際に発せられた。「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の一節でよく知られている玉音放送によって国民にポツダム宣言の受諾を告げた終戦の詔勅がこの一例である。 |
少年航空兵 | しょうねんこうくうへい | 志願兵の中でも、特に、通常の徴兵年齢である満20歳未満の志願兵のうち、飛行隊に属する者。14歳8月1日以上18歳未満の者が志願できる。また、適性試験も行われ、合格者だけが少年航空兵として入隊することができる。特に航空兵は少年たちの憧れであった。 |
初年兵 | しょねんへい | 昭和2(1927)年に制定された兵役法によって、満20歳の前年12月1日から11月30日までに徴兵検査を受け、所要の人員だけ選ばれて服役した入隊してから1年以内の兵のこと。初年兵教育は、12月に入営し、翌年の11月末までに6期に分けて行われた。 |
新兵 | しんぺい | 満20歳の前年12月1日から11月30日までに徴兵検査を受け、所要の人員だけ選ばれて服役した入隊してから1年以内の兵のこと。 |
従業証明書 | じゅうぎょうしょうめいしょ | 戦時中において、大陸で就いていた仕事内容、作業場所などを証明するもの。働いていたことを証明することで、それに応じた恩給を受け取ることができた。 |
従軍記章 | じゅうぐんきしょう | 軍人が戦争に従軍した事に対し、除隊後、政府や軍隊がその功労を表彰するために授与した記章。 |
従軍写真 | じゅうぐんしゃしん | 従軍兵士や戦地の様子をおさめた写真のこと。軍が出征する際に写真師がともに従軍し、兵士の様子を記録した。ただし、その写真は比較的戦闘が穏やかな地域における日常風景や部隊の記念写真が中心であり、戦闘そのものをおさめることは少なかった。 |
従軍証明書 | じゅうぐんしょうめいしょ | 戦後、交付された証明書のひとつで、従軍履歴を証するものとして交付された。それゆえ、終戦により最後の軍歴が復員となることから裏面に「復員証明書」が記載された場合もあった。従軍証明書は従軍先や賞罰、戦傷などのほかに召集解除を受けた日付などが記されたが、その形式は必ずしも画一的でなく、復員が戦後の混乱の中で行われたことがうかがえる。 |
従軍手帳 | じゅうぐんてちょう | 従軍した兵士が手帳として戦地に携行したもの(軍隊手牒[ぐんたいてちょう]とは別)。従軍手帳はかならずしも必携でなく、書く内容もとくに定めがあったわけでない私的なものであった。いわゆる従軍日記などとして使用され、各人が体験した戦場の様子や残してきた家族などへの思いなどが綴られた。 |
従軍日記 | じゅうぐんにっき | 従軍兵士が個人的に記した日記。日記には各人が体験した戦地の詳細な状況が記されていることもさることながら、残してきた家族への思いなど正直な気持ちが書き残されおり、戦地にあった兵士の心的状況を示す貴重な史料である。ただし、激戦地では生死の最中であり、すべての兵士が記すことが出来たわけではなかった。 |
譲渡内容証明 | じょうとないようしょうめい | 引揚げの際、関わりのあった朝鮮の方に家財を無償で譲渡することを証明したもの。ソ連軍や暴民から収奪されるのを防ぐため、公の文書ではなく、個人で作成されたもので、非常に珍しい。 |
陣中日誌 | じんちゅうにっし | 陸海軍の部隊が戦地であった事項をつづった日誌。陸軍では中隊以上で作成された。海軍では艦ごとに作成された。 |
戦災者証明書 | せんさいしゃしょうめいしょ | 戦争により被害を受けたことを証明し、国家から配給などを受けるために必要な書類であった。しかし、多数の被害者がいながらも、ほとんど救済がなされていないのが実態であったといわれている。 |
戦陣鏡 | せんじんきょう | 出征兵士に持たせた「お守り」の一種。これを身につけていれば、戦場で弾が跳ね返る(当たらない)ため、無事に帰還することができるとされた。同種の風習に「千人針」がある。 |
戦陣訓 | せんじんくん | 昭和16(1941)年1月8日に、当時の陸軍大臣東条英機が軍人勅諭[ぐんじんちょくゆ]の「戦場版」として発した、戦場における軍人の心得のこと。日中戦争の長期化により、軍紀の乱れが目立つようになったため、「皇軍道義の高揚」を図る目的で出された。捕虜となることを禁じ、玉砕を招いた要因と言われる、「生きて虜囚[りょしゅう]の辱めを受けず」という文言が一般的に広く知られている。 |
戦争と事変の違い | せんそうとじへんのちがい | 日本において、戦争とは宣戦の詔書によって宣言された戦闘行為であり、一方、事変は宣戦の詔書が無く起こった国際間の戦闘行為である。戦前の満州事変、第一次上海事変、熱河事変[ねっかじへん]、北支事変、第二次上海事変、日華事変、支那事変は戦前では宣戦の詔書は出されなかったため、戦争ではなく、他国から中立国を宣言されず、貿易などは平時の状態で行われた。 |
千人針の虎 | せんにんばりのとら | 出征兵士や戦地に銃弾除けのお守りとして送られた千人針には、戦の神として信仰される毘沙門天[びしゃもんてん]のお使いである虎の絵柄が縫い付けられることがあった。また、虎は「一夜にして千里を行き千里を帰る」との伝承があり、その絵柄は兵士の無事を祈願する女性たちに好まれた。 |
善行証書 | ぜんこうしょうしょ | 善行章を受章するときに、その証書として付与されたもの。善行章は勲章のひとつであり、軍人に対し通常、勤務年数とその成績により授与された。戦前、陸・海軍ともに入営から三年間、大過なく任務をおえた者に臂章[ひしょう]として布製の記章が授与されていた。 |
ソビエト連邦共和国 | そびえとれんぽうきょうわこく | 大正6(1917)年のロシア革命を受けて誕生し、平成3(1991)年に崩壊した。略称ソ連、現在のロシア連邦。戦後、日本はサンフランシスコ講和条約により昭和26(1951)年に米英などと講和条約を結び平和を回復したが、同条約を拒否したソ連とは昭和31(1956)年の日ソ共同宣言が発効したときとなった。また、満州にいた多くの日本人が終戦後ソ連に抑留され強制労働を課せられたことや領土問題など日ソ関係は多くの懸案が伴うものであり、ロシアに移行後の現在も未解決のものが多い。 |
た
用語 | ふりがな | 内容 |
退去証明書 | たいきょしょうめいしょ | 大陸から退去したことを証明するもの。認可されると生活品などの支給を受けられた。また、海外で生まれた民間人が戸籍(国籍)を作る際の証明にもなっており、この書類を通じて手続を行った。 |
ダモイ・ダワイ | だもい・だわい | 「ダモイ」は「帰す」、「ダワイ」は「急げ」「早く」という意味。満州等でソ連軍から「ダモイ」、「ダワイ」と日本への帰国だと信じ込まされ、ソ連に捕えられた人々は抑留され労働を強いられました。「ダモイ・ダワイ」(=「帰りたいなら早く」)と追い立てられて強制労働に従事した抑留された人々にとって、望郷の念を誘う言葉でもありました。 |
徴発 | ちょうはつ | 徴発とは、戦時や事変において、人々が所有する物品を軍需品として徴集(強制的に集める)すること。平時においても、演習や行軍の際においては、戦時や事変に準ずることができる。平時には、糧秣(りょうまつ/兵士の食糧・軍馬のまぐさ)、宿舎、馬、車両、人夫、鉄道、船舶、演習に要する土地や材料などが徴発される他、戦時や事変においては、工場や職工、病院や被服なども加えられる。 |
徴兵 | ちょうへい | 徴兵とは、国民に兵役の義務を課し、男子は満20歳になると、統一された条件の下に徴集して軍事教育を施す制度のこと。徴兵検査が行われ、現役合格とされた、体格が良く、健康な男子は、現役兵として入営することとなる。明治6(1873)年1月9日に布告された制度である。 |
徴兵検査 | ちょうへいけんさ | 満20歳になった成年男子に対して行われていた身体検査のこと。身長、体重の測定の他、性病の検査などが行われ、徴兵に向くかどうかが調査された。身長150cm以上の身体強健の男性のうち、体格の良い男性を甲種、それに次ぐ男性を第一乙種とし、この二種を現役合格とした。戦時下では、甲種合格以外は恥とされていた。 |
勅語 | ちょくご | 天皇の国務に関する意思表示するため公表された言葉を広く「勅語」、書面にしたものを勅語書という。特段に定められた形式はありませんでした。具体的な行政行為を示すのではなく、国の重大な法律や勅令の策定に際して国民の規範として発出されていた。終戦に際してラジオ放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」は「終戦勅語」と呼ばれることもある。 |
勅諭 | ちょくゆ | 天皇の言葉として直接下された告諭。「国会開設ノ勅諭」や「軍人勅諭」が有名。「勅語」が広く一般に向けて発出されることが多かったのに対して、特定の個人や団体に向けて発出され、規範や心構えを天皇の意思として説くものであった。 |
伝単 | でんたん | 交戦国の兵士、国民に対して反戦や厭戦思想[えんせんしそう]を訴えたり、降伏を呼びかけたりするための宣伝ビラ、またはチラシの総称。 |
陶器製手榴弾 | とうきせいてりゅうだん | 太平洋戦争終盤になって作製された陶器製の手榴弾。威力は小さく、実際に使用されることはなかった。 |
特設病院船 | とくせつびょういんせん | 特設病院船とは、戦場における負傷者や疾病者[しっぺいしゃ]を輸送する目的のため、戦時に民間から徴用された艦船の総称であり、日本の陸海軍それぞれが所有していた。病院船は船体を白色に塗装し、赤十字のマーク(軍用病院船は緑色、民間病院船は赤色の帯)を引かれ、しばしば白鳥と呼ばれた。病院船は航行の安全が戦時国際法で保障されていたが、医療行為以外を行うことは許されず、さらに交戦国への通知が義務付けられていた。一方、こうした義務を怠った場合(塗装をしなかった場合、交戦国通知の欠如、軍需・兵員輸送など軍事的活動に加担した場合)は病院船としての保障が適用されないため、日中戦争期には「橘丸」が中国軍の爆撃によって、太平洋戦争期においても、陸軍の「はるぴん丸」、「ぶえのすあいれす丸」が沈没している。特設病院船の代表的なものが「氷川丸」で、現在もなお観光船として横浜港で展示されている。 |
特攻隊 | とっこうたい | 正式には特別攻撃隊。昭和16(1941)年12月真珠湾を攻撃し未帰還となった特殊潜航艇乗員9人がその最初である。昭和19(1944)年海軍が編成した神風特別攻撃隊や同軍が特攻のひとつとして行った人間魚雷の「回天」などが今もその名を知られている。特攻は生還を前提としない攻撃であり、一部では反対や批判もあったが、終戦まで断続的に続けられた。 |
同年兵 | どうねんへい | 同じ年に入営した兵のこと。 |
な
用語 | ふりがな | 内容 |
南京虫 | なんきんむし | トコジラミの別名。体は扁平[へんぺい]な円盤状で赤褐色。家屋内に住み人から吸血する。猛烈なかゆみを伴うため、中国大陸で多くの日本兵がこの南京虫に苦しめられた。 |
南方戦線 | なんぽうせんせん | 南方とは、現在の東南アジアおよび太平洋南部の島嶼[とうしょ]部に相当する戦前の地域概念である。太平洋戦争における激戦地域のひとつともなった。資源不足であった日本は、石油などを求め米英の植民地であった同地域に武力進出をはかった。一時は制圧するもすぐに米英の反撃にあい、戦局は急速に悪化し、兵力や補給不足、暑さによる病気の蔓延など困難を極めた。 |
日僑俘管理所腕章 | にっきょうふかんりじょわんしょう | 戦後、中国大陸から引揚げの際に身分証明書の役割を果たした腕章のこと。日僑俘[にっきょうふ]とは中国大陸における日本人俘虜のことを指し、国民政府軍は彼らを日本へ送還するための管理所を瀋陽[しんよう]や葫蘆[コロ]島などに置いた。ここで引揚者達は手続きを行い、氏名や帰郷先、隊名(引揚げは個人ではなく隊を組んで行われた)などが記された腕章をつけ、帰国した。 |
日本新聞 | にほんしんぶん | ソ連がシベリア抑留者の日本人を対象に発行した新聞(のちに「日本しんぶん」と表記された)。昭和20(1945)年9月15日に創刊され、編集はロシア人将校と抑留者の日本人があたった。創刊当時は字を判読するのも困難であったが、満州から本格的な新聞生産設備がきたことで、次第に新聞のかたちを整えていった。約4年にわたり発行された新聞の内容は、次第に政治的性格をおび、抑留者の民主運動や共産・思想教育の材料として利用された。 |
日本人会 | にほんじんかい | 終戦時、海外にいた日本人引揚者の援助を行っていた団体。引揚げを円滑に行うため、引揚地区の指定や順番などを決定していた。 |
入営・入団・入隊 | にゅうえい・にゅうだん・にゅうたい | 兵役義務者または志願兵が、軍務に就く為に兵営に入ること。一般的に入隊は陸軍、入団は海軍(海兵団)に入る場合の通称として用いられているが、本来は陸海軍の区別なく、一律に入営という。 |
認識票 | にんしきひょう | 軍人が身につける、名前や所属部隊などを刻んだ札。戦死した場合の身元確認などを目的とし、各国陸軍で広く使用された。日本陸軍は明治27(1894)年に制式化し、縦45ミリ、幅33ミリ、厚さ1ミリの黄銅製の小判型メタルで部隊号、中隊号の番号を刻印し、軍衣や帯に結び付けるようになっていた。海軍では、一部の陸戦隊が使用したのみで、艦船乗員は使用しなかった。 |
根こそぎ動員 | ねこそぎどういん | 戦争末期、日本国内と満州地域で行なわれた動員の通称。国内では、昭和20(1945)年2月から本土決戦のための部隊が新設され(40個師団強)、在郷軍人をはじめ未入営者までもが召集を受け、主に沿岸部の防衛にあたった。満州では、関東軍から南方戦線へ引き抜かれた兵力の補充と、対ソ戦を想定した残存兵力の再編成により、都市部の勤労者や開拓団の農民が大量に召集された(8個師団、4個旅団)。しかし装備類が質量ともに劣り、小銃が4・5人に1丁しか与えられず、火砲も貧弱であった。また開拓団では、ほとんどの男子が召集されたため、ソ連軍侵攻後、婦女子のみの避難行動中に多くの犠牲者がでた。 |
農業移民 | のうぎょういみん | 満州事変以降、国策として主に満蒙地域へ送出された移民。その目的は人口問題解決や救済事業などの名目もあったが、日本の植民地政策を推進するために実施された意味合いが強かったといえる。移民の形態には、一家で移民をするものから分村移民と呼ばれる村単位で移住するものまであり、多くの人が移住していった。 |
ノルマ | のるま | シベリア抑留時に抑留された人々に課せられた一定時間内における労働・生産の最低基準量。シベリア抑留者によって日本にもたらされた語。 |
は
用語 | ふりがな | 内容 |
配給点数切符 | はいきゅうてんすうきっぷ | 点数制の切符。物資の供給量が国によって管理され生活必需品の配給制度が実施されると、各家庭に人数分が配布され、それぞれの配給所や商店で代金支払いの際に品物に見合った点数分を切り取って渡さなければならなかった。 |
背嚢 | はいのう | 軍人などが物品を入れて背負う、皮やズックなどで作った方形のかばん。 |
飯盒 | はんごう | 合金製で底を深く作った炊飯兼用の弁当箱。飯盒の蓋[ふた]はシベリア抑留者にとってスープの皿代わりとなった。 |
伐採 | ばっさい | ソ連によるシベリア抑留者に課せられた強制労働の一種。ソ連は、エネルギー確保やインフラ整備等のため、伐採、炭坑での採掘、鉄道建設など重労働を課したが、多くの帰還者が特につらかった作業として上げるのが伐採であった。自分たちが抑留される収容所を建てることから始めさせられた、という収容所もあり、伐採が必要であった。伐採事故の多発、過酷な寒さや食料事情が極めて悪い状況のもとで多くの犠牲者を出した。 |
バラス | ばらす | 砂利や土砂を艦船に積み込むことで、航行のための重量バランスをとるために行われた。船に積み込むと、重心が下がり左右の揺れが安定する。また、喫水[きっすい]を下げる効果もあった。潜水船に積み込めば、水中で投棄することで緊急浮上することができる。 |
引揚者に配布した小冊子 | ひきあげしゃにはいふしたしょうさっし | 終戦をむかえ、海外にいた多くの日本人が国内に引揚げてきた。このとき国内の状況は、大日本帝国憲法から日本国憲法の転換に象徴されるように、さまざまな制度が終戦の前後で大きく様変わりしていた。それを引揚者に周知するため各省庁や県などの自治体が小冊子を発行した。一例として、文部省が発行した日本国憲法の解説「帰還者必携(新しい出発へ)」などがある。 |
引揚証明書 | ひきあげしょうめいしょ | 終戦時に海外に居た日本人が、終戦に伴い日本に引き揚げてきたことを証明する書類。引揚げ前の職業や軍隊での階級、引揚年月日、引揚げ前に居た地名や引揚げ後の居住地の他、本籍地や上陸した港、支給された金品などが記載されている。 |
引揚船 | ひきあげせん | 第二次世界大戦後、連合国の命令によって、外国に残った敗戦国人である日本人は、軍人、軍属、民間人を問わず、即時帰国することとなり、引揚船はこれら残留日本人を本土に運ぶ役割を担った。引揚船として利用されていた一部船舶は、引揚げ完了後、連絡船等として日本国内、および海外でも就航し、多くの人々の移動手段となった。 |
引揚大隊 | ひきあげだいたい | 引揚げの際、大陸の各地区において組織されたもの。数百人から多くは数千人をひとつの隊として、帰港地まで行動を共にした。隊の存在を示すものとして、大隊旗や名札などが現存している。 |
復員証明書 | ふくいんしょうめいしょ | 復員したことを証明する書類。形式は発行した地域や時期、発行人等によってもさまざまである。復員した年月日の他、復員前の部隊名や階級、現住所等が記載されることが多い。復員地の支局長や町長等によって、発行された。 |
服役優等賞 | ふくえきゆうとうしょう | 服役優等賞は、服役優等証とも呼ばれ、現役服役中の兵士の中で、特に服務成績が優秀で、かつ品行方正であった兵に贈られる。得意分野で優れた成績を残した場合は、その分野において特に優秀であったと、証される場合もある。受賞する兵の部隊の長が付与し、内容は隊や付与する人物、受賞した人物によって様々である。 |
俘虜用郵便 | ふりょようゆうびん | ジュネーブ条約など、俘虜の取り扱いを規定した条約では、捕虜が手紙や葉書などを送付し、また受領する事を許すように、締約国に義務付けている。俘虜用郵便は、このような俘虜達によって書かれた郵便物で、各国に送られた。また当事国が、規定どおりの待遇を与えていない場合等は、赤十字社が手紙の送付や授受のための輸送を行う場合もあった。 |
武運長久 | ぶうんちょうきゅう | 武運が久しく続くこと。主として日中戦争以降に使用された入営、出征者に対して渡された「千人針」などに書かれた。 |
武装解除 | ぶそうかいじょ | 武装解除とは降伏者や捕虜などから強制的に武器を取り去ることであり、ポツダム宣言に基づき、各地で日本軍の武装解除が行われた。国外の日本軍のひとつである関東軍においても例外でなく、侵攻してきたソ連軍の武装解除を受けた。これにより民間人を含む多くの人がソ連各地の収容所に送られ、いわゆるシベリア強制抑留者となった。 |
編上靴 | へんじょうか | 足首がすっぽり覆われるほどの長さの編上げ形式の靴。一般に靴の裏側(ソール)に鋲[びょう]を打ったものと、鋲を打たない営内靴[えいないか]に分類される。鋲は屋外のすべり止め、靴底保護を目的としているが、日本軍では鋲を打った靴はあまり用いられなかった。戦地では交換、修理もままならかったため、支給された1足のみでひたすら戦場を歩きとおした例も多く見られる。 |
ペアン鉗子 | ぺあんかんし | はさみに似た形の金属製の医療器具。手術や治療のときに、器官や組織などを挟んで牽引[けんいん]・圧迫に用いる。止血のための鉤[かぎ]のないのがペアン鉗子である。 |
奉公袋 | ほうこうぶくろ | 召集の際に兵士が持参する袋で、在郷軍人は常日頃からこれを用意しておくのがたしなみとされていた。応召の場合には、軍隊手牒[ぐんたいてちょう]、召集令状、勲章、記章、印章、適任証書、貯金通帳、風呂敷包、名札、梱包用麻縄、油紙、名札などの入営に際して必要なものを入れて携行した。「奉公袋」とは陸軍での呼称で、海軍では「應召袋」[おうしょうぶくろ]といった。 |
補充兵 | ほじゅうへい | 徴兵検査を受けた後、甲種合格であったのにくじで選ばれず入営しなかった者や、乙種合格で、同じく入営しなかった者が、補充兵となった。第1補充兵と第2補充兵(第1補充兵に徴集されなかった者)があり、第1補充兵の場合には、旅行等で長期に本籍地を離れる場合には、軍への申請が必要となるなど、一定の義務を負った。また、補充兵満期後は国民兵役となった。兵数が不足した太平洋戦争では、多くの補充兵が戦場へと送られた。 |
捕虜と俘虜 | ほりょとふりょ | 戦争において、敵に身柄を拘束された軍人や軍属のことを指す。俘虜も捕虜も同様の意味で使われるが、俘虜は明治32(1899)年に制定されたハーグ陸戦規則と、昭和4(1929)年のジュネーブ条約で、捕虜は『捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約』で用いられた。第二次世界大戦当時、これらの条約で定められた待遇を受けられるのは、軍人や軍属等、証明書を持った、交戦者資格を持つ者のみであったが、昭和52(1977)年以降この規定は緩和された。 |
防寒外套 | ぼうかんがいとう | 防寒などのため、衣服の上に着るゆったりとした外衣。オーバー・マントなどの種類があるが、行動を制約されるため軍隊では袖を通さないマント形式は制式なものとしては用いられなかった。陸海軍、または軍人と軍属によってもその様式は異なるが、肩章の形状、銀星などの付属品によって階級が識別できる。 |
暴民 | ぼうみん | 暴動・反乱を起こした人民の意。戦後、排日意識の高まりなどにより、在留邦人、居留民、引揚者などに対し、現地人や兵隊が暴行、略奪、殺傷行為などを多数行ったといわれている。日本政府も邦人保護をソ連や中国に要請したがほとんど機能しなかった。 |
ま
用語 | ふりがな | 内容 |
マホルカ | まほるか | タバコの茎と葉が混在し、刻み方も荒い粗製の安価な刻み煙草。ソ連の兵士でも階級の低い兵卒クラスはこれを嗜[たしな]んだ。シベリアに抑留された人々には数少ない貴重な嗜好品[しこうひん]であった。 |
満州協和会 | まんしゅうきょうわかい | 満州国において「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとして昭和7(1932)年7月に発足した官民一体の組織。創設に尽力したのは、満鉄社員の青年など満州事変後、自治指導部に集まった日本人民間有志であり、この組織は下からの民意を汲み取る機関となることを期待された。しかし、関東軍の干渉などにより国家の翼賛宣伝機関となり、その存在意義は急速に失われていった。 |
満州国 | まんしゅうこく | 昭和7(1932)年から昭和20(1945)年の間、中国東北部の満州に存在した実質的な日本の植民地国家。昭和6(1931)年の満州事変勃発後、日本の軍事行動により建国され、愛新覚羅溥儀[あいしんかくらふぎ]が満州国執政として即位した。日本の傀儡政権[かいらいせいけん]と見なされ、当時の国際連盟加盟国から多くの非難を呼び、国際連盟脱退の主要な要因ともなっている。 |
満州国貨幣 | まんしゅうこくかへい | 満州国で流通した貨幣で、正式名称は満州中央銀行券。満州国中央銀行が発行していた。中国大陸では多くの紙幣が使用されており、満州国内の貨幣制度を統一するために発行された。満州中央銀行券は公式の紙幣として信用が厚く、安定した価値を維持しており、通貨単位制度は1円=10角=100分と定められていた。 |
満州国切手 | まんしゅうこくきって | 満州国が発行した郵便用切手。2,4,5,8,12,13分の額面があり、満州国国章である蘭花紋章が描かれていた。満州国は国家として広く認められておらず、満州国外への郵送の際には無効処分とされたり、国名の表記が省かれた特別な専用切手が発行されるということもあった。満州国の滅亡と共に発行・使用されなくなった。 |
満州拓殖公社 | まんしゅうたくしょくこうしゃ | 産業開発、治安維持、対露戦略上の軍補助機関などの目的遂行のため、昭和12(1937)年満州拓殖株式会社を前身として設立された日本の公設企業。主な事業としては、満州国の土地開拓、現地住民からの土地の接収、開拓団の支援などを行った。開拓団に用意された土地は現地住民から買収されたものが多く、当時の日本の大陸における活動を表す企業である。 |
満州の花嫁 | まんしゅうのはなよめ | 「大陸の花嫁」とも呼ばれる。満州への開拓移民が国策として展開していくなかで、結婚が開拓と結びつけられた制度。この奨励のため、府県市町村や婦人協会などの自治体組織だけでなく、映画や唄などのメディアも通じて大々的に宣伝された。実態としては、即席婚や写真結婚など本人の意志が尊重されない形態が多々あったといわれている。 |
満人 | まんじん | 満州国は多くの少数民族によって構成されていた。そのなかでも、かつての女真族[じょしんぞく]で17世紀に清朝を建国した人々の末裔[まつえい]は「満人」あるいは「満族」と呼ばれた。満州国皇帝の皇帝愛新覚羅溥儀[あいしんかくらふぎ]は清朝最後の皇帝だった。満州国は国策で民族識別工作を行い、少数民族の人々を国内では一定の権利を有する民族として公認していた。 |
満鉄 | まんてつ | 正式には南満州鉄道株式会社。日露戦争に勝利し、帝政ロシアから鉄道利権を得たことにはじまる同社は、半官半民の巨大な国策会社として第二次世界大戦が終了するまで日本の植民地経営の根幹をなした。昭和初期には世界恐慌の影響で収益が悪化するなか、同社の路線と並行する線路を建設する等の中国側の民族的抵抗を危機として捉え、満州事変の要因のひとつともなった。 |
メンタ酒 | めんたしゅ | メンソール(ハッカ)と砂糖、アルコールを主原料とした消毒薬。軍医が戦地で治療を行うための「医療袋」に収められ、戦地では「気付け薬(酒)」として使用された例も散見される。 |
や
用語 | ふりがな | 内容 |
野戦病院 | やせんびょういん | 師団以上の部隊が戦闘を行うときに戦場に設けられた病院のことで、一師団で3、4所の野戦病院が設置された。陸軍の場合、軍医中佐もしくは大佐が院長となった。ただし、野戦病院は部隊の移動に従うため恒久的な施設が設けられたわけではなく、戦争末期の南方戦線などでは十分な医療設備を設けることは困難を極めた。 |
野戦用有線電話機 | やせんようゆうせんでんわき | 戦場において味方同士の連絡に使われていた有線の電話機のこと。日本軍の電話通信の主力機である九二式野戦用有線電話機の有線距離は標準40キロ程度であった。ちなみに九二式とは昭和7(1932)年が皇紀2592年であったことからきたものであり、同年に採用されたことを示している。 |
やぶ出し | やぶだし | 伐採した木材を山から運び出すことです。集材。伐倒、玉切りした丸太、木材を搬出のために設けられた収集地点まで運び出す作業であり、専ら馬を使用していましたが、人力で運搬することもある大変危険な作業でした。 |
ヤポンスキー | やぽんすきー | ロシア語で日本人の意味。戦後、ソ連によって約60万人もの日本人がシベリアに強制抑留された。現在ではほとんど耳にしない語彙となってしまっているが、若干侮蔑の意を持つとされているように、シベリアに抑留されていた人々が彼らの呼称としてロシア人から呼びかけられたものであり、単純な「日本人」の意としてだけではないことに留意したい。 |
遺言状 | ゆいごんじょう | 遺言を書いた文書。戦地に出征する将兵が家族に書き残したものだが、現在のように財産分与などを遺言する目的で書かれることはまれで、両親への感謝、兄弟への思いなどを綴ったものが大半である。 |
有刺鉄線 | ゆうしてっせん | 鉄製の針金の所々に鋭く切った針金のとげをつけたもの。柵などに張り巡らした。 |
ら
用語 | ふりがな | 内容 |
ラーゲリ(ラーゲル) | らーげり(らーげる) | 第二次世界大戦終結後、約60万人の日本人がソ連各地のラーゲリ(収容所)に送られ、粗末な食事で強制労働に従事させられた、抑留者の多くが栄養失調等で斃[たお]れていった。ラーゲリでの犠牲者について正確な統計は存在しないが、ソ連による明白な国際法違反行為である「シベリア抑留」によって、多くの日本人が祖国の土を踏むことなく倒れていったことは歴史的な事実である。 |
陸海軍の階級 | りく・かいぐんのかいきゅう | 階級は、陸・海軍による差や時期によっても大きくことなっているが、大きくは士官と下士官に大別できる。士官とは将官(大将・中将・少将)・佐官(大佐、中佐、少佐)・尉官(大尉・中尉・少尉)を総称したものである。一例として、少尉で士官が指揮を執る最小の部隊である小隊長などになり、少佐で連隊の最小単位である大隊長に任じられた。少尉の下に准士官が置かれ、さらに、士官と兵との間に位置する下級幹部として下士官(曹長、軍曹、伍長)が置かれた。この下層となる兵のなかでも、兵長・上等兵・一等兵・二等兵など細かい区分があるなど軍隊は厳然とした階級社会であった。 |
陸軍典範令 | りくぐんてんぱんれい | 陸軍の基本的教本の総称。教育訓令の統一標準化のため、原則として教育総監部で起案し、陸軍大臣を経由して全軍に配布した。典範令は3種あり、諸令は作戦要務令、軍隊教育令、軍隊内務令、衛戍令[えいじゅれい]、陸軍懲罰令など軍隊の維持、運用に関する共通な教本であり、操典は歩兵操典をはじめとする作戦要務令の規範を実行するため、どう訓練、戦闘するべきかの原則と制式を示した教本であり、教範は兵の練成を目的とする教本であった。 |
陸軍のマーク | りくぐんのまーく | 星をもとにして作られた星章[せいしょう]がある。階級章や軍帽などにつけられた。 |
罹災証明書 | りさいしょうめいしょ | 戦時中、空襲などにより被災したことを証明するもの。この書類を提示することにより、恩給が受けられた。戦争の被害だけでなく、当時の防空体制や戦時統制下の生活を投影するものである。 |
履歴表 | りれきひょう | 海軍の兵士が従軍中に携帯することを義務づけられていた折りたたみ式の履歴書。兵士としての経歴が記されており、履歴書であると同時に身分証明書でもあった。陸軍兵士は「軍人勅諭」「教育勅語」などを収録された「軍隊手牒」[ぐんたいてちょう]を携帯していた。 |
臨時召集令状 | りんじしょうしゅうれいじょう | 一般に「赤紙」ともいわれます。現役兵は、徴兵検査に甲種合格した者のなかから抽選で兵士が選抜された人々が2年間の兵役を務めていた。しかし、戦争の拡大や長期化によって兵士が不足すると、臨時動員令が発令され、過去に兵役に服していた人や徴兵検査で選抜されなかった人々も兵士として召集された。こうした人々を召集するための命令状を「臨時召集令状」という。 |
わ
用語 | ふりがな | 内容 |
割増金附愛国債権 | わりましきんつきあいこくさいけん | 朝鮮殖産銀行が戦費調達目的のため、朝鮮半島で売り出していた戦時債券。割増金とは「くじ」のことで、当選者は割増金を受けられる仕組みとなっていた。くじをつけたのは売れ残りを避けるためといわれ、さらに満期まで抽選は毎年行われたのは、簡単に払戻させないようにする目的があったといわれる。敗戦と同時に価値を失った。なお同種の戦時債券には日本勧業銀行が発行した戦時貯蓄債券などがある。 |